昭和54年5月18日


月例祭教話



 信心を頂いて、身に徳をいうける、一日を安らいだ心で喜びの生活ができるようになると言う稽古が信心の稽古だと思うのです。果たして(  ?  )そうした、日々の生活の中にどれほどしの喜びが頂けておるだろうか、どれほどしの確信、神様を信じて疑わない安心の心があるだろうか、確かめてみなければいけません。年数だけはくっておりましても、それが育っていってないと、ずうっとお参りをしておるけれども稽古をしてないということになる訳です。
 その喜びとか安心、言うなら確信、神様を信じて疑わない心、ね、そこから生まれてくる安心、それがあの世にも持っていけるのです、それがそのままお徳です、ですから、自分でお徳を受けていっておる様子と言うものは分かるはずなのです。
 今日、午後の奉仕をさせて頂いておる時に、福岡の伊東さんがお参りになりました、そして、お届けをなさいますのに、お嬢さんがおられるそうですが、お母さん、私がもし最高の人と恋愛( ? )して、結婚するというたら、お母さん、あなたはどうするか、どう思うかと質問を受けられた、皆さんどうでしょうか、ね、もう、とにかく内の娘(     ?     )もう、それこそ、まだ花も恥じらうほどしの、まあ、娘さん、その娘さんが、最高の男の子と恋愛をし、そして、結婚をすると言うたら、お母さん、あんたはどう思うか、(  ?   )、ね、そのへんがどう思うかということで信心が決まるんですよ、ね、それで、伊藤さんも答えてと言われるに、お母さんはね、あなたのことを( ? )金光様にお願いをしてからのことだからおかげと思うよと仰ったげな、けれども、パパがどういうか分からんよと、もう、娘さんが驚かれたそうです、お母さんが頂いておる神様は確かな神様だと言うことが分かるといわれたそうです、ね、そして、実はね、私前、私の友人がね、友人からそういう相談を受けた、それで、私の、私の母がこうして金光様のご信心をなさるから、ね、お尋ねをしてあげようと言うたと言うのでございます。
 私はほんとドキッとするようなことないでしょうか、ね、それはあんた親に相談せんのうと言いやせんでしょうか、お神様に、それこそ、伊藤さんの場合は毎日ですけどね、(  ?  )なさっておられます、毎日あなたのことはお願いしてのことだから、お母さんはおかげと思うよち仰った、けれども信心のない、パパはどういうか分からないけれどもと、ね、そういうような信心の確立が出けておる時に、信心のない娘が触れただけで、お母さん、私もいっぺん、その、合楽のつれて参ってくれと申しましたと今日言っておられます。
 ちょうど引き続いて、古いご信者さん方が、あの、次々お参りに成りました、えっと、東さんですね、あの東さんのお母さん、それから吉井の田舎の方におられます森光さん、とにかく、3、4人の、もう椛目時代からの、いうならば、まあ、合楽のコッピと言うような御信者さん方がかば目から続いて参ってみえられた、で東さんのお母さんは、まあ、いろいろ、その、お夢を頂いた事をお届けれてです、もう本当に長いこと長いのう、あーっっ、内の二番目の息子の光昭が、まだ要約はいはいが出来る時分に福岡の秋永先生の所の宅祭りの時に、合楽で修行しよる人が、あの、すぐ近所ですから、こちらへ連れて行ったと、ところが床の間に大黒様が、こう、飾ってあった、(  ?  )。
 それを、光昭がごそごそはおっていってから、それをこう、そして、抱いてから離れない、帰ると言うても、はあ、だから、あの、椛目の先生は大黒様いわなんしゃるから、やっぱお父さまから離れなさらんとじゃろう、これは、なら、光昭しゃんに差し上げましょうと言うて、差し上げた、時分の事をありありと覚えておられて、椛目でこんなお知らせを頂いた、こう言うこともあった、あー言うこともあったと言う昔話をされて、長いこと長いばってん、とにかく本当に信心が育っとらんのうと言うて話したことでした、というのはお夢を頂いた、ね、それが、うん、まあ、いろいろ詳しいお夢でしたが、あんたの信心はいつまでも椛目の信心つうて神様から頂かれたそうです。
 そりゃー椛目からの信心じゃから、椛目の信心には間違いないだけれどもね、それは椛目の信心から一つも進んでってない、常持ちに行ってもなければ合楽にも行ってないと言ったような感じのねと言うて話しました、ね。せめて常持ちまでぐらい頂かないかん。椛目で、言うなら喜びの稽古をさせてもらうその喜びを、常に持ち続けさせて、そしてまあ、少しはましな、神様に喜んで頂けるような信心をさせてもろうて、神様と合楽しあえる世界というものが開けてこなければいけないのです。数ずう年の信心を頂いておるのなら、ね。私はそげん言われるならそうでございましょう、ね。合楽の信心、その、ああー常持ちから合楽、合楽しあうというとは大体どういう事でしょうかとこう言うんです、ね。言うならば、まず人間と合楽し合わなければいけない。息子と合楽し合わなければいけない。自分の周辺の誰かれとも合楽し合えれる信心が、も続かなければならないという事は、相手を拝めれるという事である。金光様の信心より合楽の信心の方が難しかですのっち言う事でございました。(  ?  )
 久留米の三橋先生の知り合いがもう合楽で修行されていて、もう不思議と三橋先生が、私の(  ?  )三橋先生からコンコンとこんな御理解も頂いた、あんな御理解を頂いたと言うて御理解をちゃーんと覚えてあるけれども、それが一つも信心になっていないと言う感じのお話でした、ね。昨日は福山から団体参拝がございました。丁度、おおー見えられてすぐ研修室で、ええー先月の月次祭のおせっきょをビデオで見て、聞いておられました。その時に、ええー福岡の宮崎先生が横に参ってまいりました。それでは北の綾部さんが先月の、おおー御大祭のお礼に御主人方も一緒にお礼参拝があった。それで私は、ああー3時までここで奉仕させてもろうて、3時から研修があるので、そちらが終ったら(共励殿で?)あちらで、三橋先生も交えて研修させて頂こうと言うてお話をさせて頂いた。お話させて頂こうとしよったら、伊万里の竹内先生が見えられた。竹内先生、綾部さん、宮崎先生と、あの上の方へ上がってもろって、っで勝彦は、に私の話も聞いてもれえ、又、三人の先生方の、まあそりゃあ、本当に何とも言えんお話をして下さいました。もう本当に私はあの竹内先生のお話を頂きながら、ああー有り難いと思いました。私がこの話を野村業者?の社長さんでしょうかね、にお話をしたら、「そういう所があったら自分もそういう信じんならしてみたい」、「そういう、あのー人の所で毎月その会合があっておるそうだからその会合に一遍出てみたい」と言われたとういう話をしてくれました。
 今度あちらのある選挙があった。こりゃあどうでも先生の耳に、ええー言うならば、AならAのどちらか、この人がどうでも当選してもらわなきゃならんけれども(?)が反対の方に反対の方に、言わば、ひどーい人間で心がずっーと揺れて、言うなら悪人のそのどういう手立てでも、その、してから、ああー、そのー、やるという人じゃったから、もうどんなに考えても、その、当選する事は難しごたるけれども、これは視線の上にお役に立たせてもらわなきゃならんので、やっぱり親先生にお取次ぎを頂かせてもらおうたら、ね、「藤」という字を頂いた。草冠に下にこうある。その藤という字が、あの勝ると、勝という字を下おいたって藤と言う、だから、二つの御理解があるわけ、これは、この人はね、頭を下げる事を知らない、藤の花のように、もう下へ下へと下がって、下から見上げられるようなおかげを頂だかにゃならんのだから、ね、やはり、その選挙の時だけに限った事じゃないけれども、じゅうを低くしておかげを頂かれたら、勝つおかげが頂かれるという御理解であったという話をしておられました。
 さー、親先生があー言われるから安心だとこう思うた、けれども、かえって情勢見ておると、その、やはり負けそうになるとこれは、もう、こういうところが自分達の信心の確立が出けてない証拠とだという話しをなさっておられました、親先生が右と仰ったからもう右大丈夫だと安心しきるならいいだと、これからの私の信心は親先生が右とおっしゃったら右、そこで安心が生まれる、やすらぎが生まれるだけの信心を頂きたいと話しておられます。
 自分が十数年前に、それこそ、金光教のえらい先生、素晴らしい教会と言いや、それこそ、遍歴しながら金光教の信心の真の信心を教えてくださる先生がござるならと言うて、えー、求め続けた時代があったが、最後に椛目に、当時の椛目にご縁を頂いて、私が求めておったのはこれだった、この先生であったと分かった時に、これが、私の金光教の、最後の金光教ということになったが、皆さんも、福山あたりから岡山、それから、広島からのご信者さん方です。
 これは、遠方をこうしてみえるけれども、合楽というところは皆さん最後の金光教ですよというお話しをなさいました、ね、そしてです、その選挙の事が、もういよいよ明日が、その選挙というときに、今日も落ち着かない、それでまたこちらをお尋ねしてから重ねて親先生にその事をお願いさせて頂いたら、ね、やっぱり先生が言われるように天が少ないと頂いた、ね、このさんずいへんの河という(?)を頂いた、ね、さんずいへんの河という字だけれども、上にてんがちょっとしてある、したのこれを、ぱーと、もう、勢いよく跳ね上げる所を頂いた、ね、そして、横は可と言う字でしょう、許可するの可でしょう、ね、だからこれはてんは少ない、けれども、この跳ね上げる所を多いに跳ね上げさせて頂いて、いうなら、教えを本気で実行させて頂いたら、ね、神様は許すと仰せられるから、おかげを頂きますよという御理解である。はじめて、少し安らいだ、ね、そして、いわれるのに、その、どうでも当選しもらわねばならない人は悪い人ではないけれども、もうとにかく人に頭を下げるという事が嫌いなひとだそうです、ところが、この御理解を頂いてですね、じゅうを低くしていかん、藤の花のような信心せないかんって合楽で言われたことを聞いても、それから非常にじゅうを低くされるようになった、いよいよ、( ? )になったら2票違いであった、おかげで、まあ、あとは( ? )したというお話もね、そういうおかげを頂いて、当選のおかげを頂いたその間に自分の信心の動きというか、自分の信心の程度というものを見極めて、これではいけんと次の信心の手掛かりを頂こうとなさっておられる模様を、ただおかげ話だけじゃいかんですよね、自分の信心の程度、自分の頂いておる神様のその確信しておる( ? )この程度という事を分かって、もうこれからはです、親先生が( ? )をやめよというなら、いつでも止められる覚悟ができておりますという話をなさいました。
 信心の確立、それはそのまま、いうならば、確信させてもらうことはそのまま安心につながるんだ。そういう信心が育っていかなければならない、お互いの信心も、やはり、椛目の時代から何十年の信心は頂いておるけれども、いつまでも信心が椛目でとどまっておるということではいけない、常持にもでこなければいけない、もうすぐそこに見える合楽世界に住まわせて頂くという神願を立てての信心、それが何かの時に、それがはっきり分かる。
 昨日は、合楽会でしたが、もうそれこそ、時間がたつのも忘れるようにして十二時ちょっとすぎまで皆さんの話を聞きました、あそこの田中さんが発表しておられましたが、丁度、日田の御大祭にはお参りするつもりはなかった、ところが、中村さんからお参りしないかと、いうて、したので、すぐに、あー、お参りさせていただこうと言うてお参りをさせて頂くつもりで、こう、出て参って、村を出始めのところでいつも、まあ、なかよう一緒の友達に会われた、どこにいよんのうと、今日は大分の大祭だから、はあーあんただんな結構な( ? )なことで、別れたその後にです、したから突き上げてくるような喜びが湧いてきたと、中村さんの所の( ? )だと、どういうことでしょう、これはどういうことでこんな喜びが湧いてくるのだろうか、あの人達は遊びにいきよんなさる、私は御大祭にお参りさせて頂いた、その開きを思うた、らしいんです、信心ある者のない者の違いをそこに思うた時に、それころ、どうにも出来ない感動が湧いてきた、それで、おかげで感動の中に大分の御大祭を頂かせて頂きまして、帰るまで喜びが尽きないおかげを頂いた、ね、信心をさせて頂くならば、そういう、いうなら、喜びのリズムに絶える事ない、消える事のないリズムを聞きながら、ね、信心を頂いておることの喜びを思わせて頂きながらの私は日々でなかなければいけない、ためには、いよいよ実験よりほかにないという、次に、こんどは久保山さんが発表しておられました、もう、なんと言うても、ね、この方は成り行きを大切することを、もう、命のようになさっておられますが、その修行の第一は、いわえる、「くの一修行」といわれる。
 修行の第一はくの一だと、もう、このくの一修行に徹底させて頂いて家庭の中に、そして、自分の周辺のいろんな問題やら、人間関係の上にも、これを頂いていく以外にないと言うお話と、それにつながるところのおかげ話をなさっておられる、もう、拍手合切といううような、まあ、事実ね、行の上に現しておられる、人間関係の上にも、家庭の上にも、経済の上にも、ね、ですから、自分から求めて楽をしようとは思わないけれども、神様は楽をさせずにはおかんという働き、ね、、お芝居にもやらせて頂けるし、温泉にもやらせて頂けれる、ね、自分がお芝居にいこう、温泉にでもいっていこうかということではなくて、もう、成り行きの中に神様の、それこそ、たえなるまでの働きを受けながらの生活というものがこんなにも有り難い、こんなにも有り難い信心を分かろうとしないことが不思議でたまらんというのである。
 親先生が言われるように、とにかく教えを実験、実験する事だと、ね、そこから必ず実証が生まれてくる、それを積み上げていく信心生活から、ね、いよいよ、いわえる、確信に満ちた生活が出来るようになる、どういうことがあっても、これから先信心する者はどういうことがあっても驚いてはならんと仰る、ね、突然ある日娘から、こうした結婚をしたらお母さんどう思うかと、もうそれこそ、顔色が変わるようにビックリするような事はないでしょうか、神様にお願いをしてからの事なのだ、日々娘の事をお願いをしてからの事だ、そこに、悪い答えが出てくるはずはない、それが相手が再婚の人であろうが、お母さんはありがたいと思うよと、ね、と娘に言えれる、信心のない娘が感心してしまった、お母さんが頂いておる信心は本当の信心だと、私もいっぺん連れて参ってもらいたいというようなところまでおかげを頂いたという話でございます。
  竹内先生の話にしてもそうであります、ね、これほど合楽の信心、それこそ、ね、日本国中( ? )真の信心を頂きたいと求めつづけて、その求めておる自分の信心の内容というのものが、もうこの先生より師匠はないと思うておるその師匠のいうておることが(      ?      )、さあ、いよいよ明日がまじかな選挙と言う時には、もう一本目、お尋ねをしておる訳、(   ?    )お尋ねをしておらなければ心が治まらないという程度の自分である事に改めて気付かせていただいておかげを頂きましたと言う話しをしておられました。
 福山の( ? )の中の一人が発表しておられましたが、あちらは玉水教会が、まあ、親教会と言う関係になる、とにかく教師でも資格を持たない人がどんどん助かる、これは凄まじい御比礼だったそうです、もう、初代が亡くなられた、ところがここには絶対というていいほどお話しというものがなかった、もう、ただ、御祈念に明け暮れるという、もう汽車、尾道ですか、あちらへ( ? )と御広前がいっぱいになる、そすと御祈念がある、御祈念を頂いたら皆が帰る、また次の汽車がくる、また御祈念があるというようことでしたが、今でもやっぱり、先月、春の御大祭に、いわえる、親教会であるところの玉水教会には800名の方達が新たな団体列車で参拝させて頂きましたという話しておられました。
 親教会に( ? )したら800名、(    ?     )春の大祭のお参りのアレだけの人達がその親教会のお参りしたというんですから対したもんです、ね、ところがね、お話がわからない、おかげを頂いてもお話がわからないから、いうなら、安心のおかげを頂くとか、ね、信心が、いわえる、確立してくるというような、確信に満ちた喜びの生活がされるというような事ができない、たまたま、合楽にご縁があって、合楽の御理解に、いうなら、合楽の御理解を頂くことのために毎月( ? )みえられる、それこそ、遠方から今日の御理解に、氏子遠方からお参りをしてくるが、この方は参って訪ねるところがなかった、ね、ここでは、こうやってお話しを頂くことができる、しっかり信心をして( ? )のできる信心になるよと教えておられるあの御理解が、今朝の御理解でしたが、それこそ、遠方からご理解を求め、お話を求めてお参りをしてくるから、もう、びっちり、ね、もう(  ?   )ずうっとお話しの頂き尽くめ、しかもそこにです、宮崎先生が、竹内先生が、綾部さんがそこにお参りし合わせて、そして、三人の( ? )信心を話してくださった、もう、それこそ、来る時に(    ?    )そうですから(   ?   )もう時間ギリギリまでお話しを頂いて帰られた、ね、いただこうと言う姿勢が生まれてくると、頂かせずにはおかんという働きを感じるでしょう、皆さんは頂こうと思わんでも朝の御祈念には参ってくりゃ頂かれる、こうして、月次祭には参りをしてくればこうやって頂かれる、頂かれるだけではなくて、ね、それが血になり、肉になり、そしては、それが一日の喜びの生活、ね、いうなら、神様を確信しておる生活、自分の心のやすらぎの世界がいよいよ広がっていくということに焦点を置いて、その安らぎの心がいよいよ広がっていく日々であり、信心である、それを自分の心の中の信心のめどとして、お互いが信心を進めていかなければいけません、いうならば、もう、私は合楽に30年もお参りよりますという、今日3人続いてそういう方達がお会いされてみえましたが、ね、ほんと神様これは( ? )お前の信心は椛目の信心と仰った。
 椛目から一歩も出てない、それこそ、高山さんじゃないけれども、久保山さんじゃないけれども、一日信心を頂いておる者頂いてない者は差がこのようにもあると思うただけで感動が湧くという喜びの信心生活をさせてもろうて、しかも、それをいよいよ、何かの時に確かめられる、このぐらいの事はまだまだと次の信心の手掛かりを頂いて信心をいよいよ、本当に、いわえる、自分の物にしていかなければならない。
 御教えが血になり、肉になるところまでおかげを頂いていかなければならない、東さん、合楽の信心は何かの信心かち、とにかく、嫁ごつ、合楽しあう事たい、今さっき、上滝さんがお嫁と二人で参ってきておる、もう、何と言うてもね、もう、本当に、姑と親と嫁がね、手をつなぎおうて信心の稽古ができる(  ?  )こはないです、嫁姑の中悪きは天地に( ? )と教祖は仰った、だから、なら、嫁姑の中が素晴らしく、有り難い合楽の世界が生まれておるならば、これば天地に響かない、またはずもないわけなんです、合楽での信心というのはそういうすべての物と拝み合える、合楽し合える世界を目指してのお互い信心の稽古でなかなければならんということでございます。
                                  どうぞ。